2009年10月03日
学園祭1日目 2年生クラス劇
2年生(45期)は、「ばあちゃんの日記~64年前の想い」と題して、日本統治下における朝鮮を舞台にした劇をしてくれました。以下あらすじです。
杉山家のおばあちゃん(杉山涼子)が亡くなった。

お葬式後、孫の杉山Hくんはおばあちゃんの部屋の片付けを頼まれる。そこで見つけたのはおばあちゃんの若いころの日記だった。Hくんは片付けも忘れ日記を読みふける。
******************
おばあちゃんは2歳のときから朝鮮で育った。そして教員になり朝鮮の学校に勤め始める。日本の統治下にあった朝鮮半島の学校では第二次世界戦がはじまると、日本人による日本語・日本史教育が厳しく強制されるようになっていた(皇民化教育)。また生徒は本当の名前を使えず、日本名をつけられていた(創氏改名)。それに逆らえば、教師も生徒も危険な目に遭うことになる。おばあちゃんはそれらのことに疑問を感じつつも、何もせずただ必死に教員生活を送っていた。
ある日、クラスの太郎くん(日本名)が、母語である朝鮮語を使い、思わず手をだして叱りつけてしまったおばあちゃん。しかしこのことをきっかけに、日本のしていることはおかしいという思いを新たにし、朝鮮語で授業をすることを決意したのだった。
危険をおかしつつも生徒に寄りそって授業をしようとするおばあちゃんに、太郎くんはじめ生徒たちは心を開きはじめる。生徒はおばあちゃんを「なすび先生」と呼び、生き生きとした授業が行われるようになった。

なすび先生の取り組みはとても危険なものだったが、事務員の朝鮮人が心の支えだった。なすび先生は信頼のおける彼に自分の危険を伴う取り組みを打ち明けたのだ。彼はいつもなすび先生を励ました。またなすび先生を支持したのは彼だけでなく、日本人である校長も協力してくれた。
日本軍のぬきうち調査が入った。日本軍は太郎くんに日本史の知識を問う問題をだす。彼は見事に答え、朝鮮語での授業の事実をかくし通すことができた。
なすび先生への試練はつづく。なすび先生が心の支えにしていた事務員の朝鮮人が日本軍に連れ去られた。なんとかしたいと思うなすび先生。しかし自分の、そして生徒の身の安全を考えると何もしない方がよい。校長の必死の説得の末、思いとどまるすなすび先生だが・・・。
10月25日はなすび先生の誕生日だった。生徒は、なすび先生の大好きな「ふるさと」の歌をプレゼントした。
1945年に入り、ある独立運動で朝鮮人が日本人を攻撃する。その朝鮮人に襲いかかる日本軍。目の前での殺し合いを何ともすることもできず、途方にくれるなすび先生。

8月15日、日本敗戦、朝鮮解放。8月16日、なすび先生は校長先生に呼ばれ、翌日の便で日本に帰るよう言われた。せめて生徒に会ってから帰りたいとの願いもかなわないとわかり、生徒への伝言を託す。まだ朝鮮での仕事が残っている校長先生とも突然のお別れだった。
8月17日。生徒との日々、生徒がプレゼントしてくれた「ふるさと」を思い出しながらなすび先生は汽車に乗る。すると見送りにきてくれた生徒たちが走って汽車を追いかけてくる。これが彼らとの最後の時間になった。
******************
片付けをしていなかったことに気づいた孫のHくん。あわてておばあちゃんの日記を閉じる。
Hくんはおばあちゃんと同じ、教員の道を選んだ。

そして、おばあちゃんの想い、日本がおかしたあやまち、朝鮮人の受けた苦しみ、それを伝えていくことができるだろうかと思いながら、日々の授業に励んでいる。
韓国から2人の留学生がいるということを生かした、45期らしい劇だったと思います。ところところで韓国語も使われました。また、日本がおかした罪、朝鮮の方々の想像しきれない苦しみ、また朝鮮人日本人に関係なくこのことが多くの人に与えた傷、その中でも通い合った人同士の温かい心、そういうものに正面からむきあい、表現してくれたと思います。
最後に25人がステージに並び、役紹介など挨拶をしてくれました。

〈あらすじ〉
杉山家のおばあちゃん(杉山涼子)が亡くなった。
お葬式後、孫の杉山Hくんはおばあちゃんの部屋の片付けを頼まれる。そこで見つけたのはおばあちゃんの若いころの日記だった。Hくんは片付けも忘れ日記を読みふける。
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おばあちゃんは2歳のときから朝鮮で育った。そして教員になり朝鮮の学校に勤め始める。日本の統治下にあった朝鮮半島の学校では第二次世界戦がはじまると、日本人による日本語・日本史教育が厳しく強制されるようになっていた(皇民化教育)。また生徒は本当の名前を使えず、日本名をつけられていた(創氏改名)。それに逆らえば、教師も生徒も危険な目に遭うことになる。おばあちゃんはそれらのことに疑問を感じつつも、何もせずただ必死に教員生活を送っていた。
ある日、クラスの太郎くん(日本名)が、母語である朝鮮語を使い、思わず手をだして叱りつけてしまったおばあちゃん。しかしこのことをきっかけに、日本のしていることはおかしいという思いを新たにし、朝鮮語で授業をすることを決意したのだった。
危険をおかしつつも生徒に寄りそって授業をしようとするおばあちゃんに、太郎くんはじめ生徒たちは心を開きはじめる。生徒はおばあちゃんを「なすび先生」と呼び、生き生きとした授業が行われるようになった。
なすび先生の取り組みはとても危険なものだったが、事務員の朝鮮人が心の支えだった。なすび先生は信頼のおける彼に自分の危険を伴う取り組みを打ち明けたのだ。彼はいつもなすび先生を励ました。またなすび先生を支持したのは彼だけでなく、日本人である校長も協力してくれた。
日本軍のぬきうち調査が入った。日本軍は太郎くんに日本史の知識を問う問題をだす。彼は見事に答え、朝鮮語での授業の事実をかくし通すことができた。
なすび先生への試練はつづく。なすび先生が心の支えにしていた事務員の朝鮮人が日本軍に連れ去られた。なんとかしたいと思うなすび先生。しかし自分の、そして生徒の身の安全を考えると何もしない方がよい。校長の必死の説得の末、思いとどまるすなすび先生だが・・・。
10月25日はなすび先生の誕生日だった。生徒は、なすび先生の大好きな「ふるさと」の歌をプレゼントした。
1945年に入り、ある独立運動で朝鮮人が日本人を攻撃する。その朝鮮人に襲いかかる日本軍。目の前での殺し合いを何ともすることもできず、途方にくれるなすび先生。
8月15日、日本敗戦、朝鮮解放。8月16日、なすび先生は校長先生に呼ばれ、翌日の便で日本に帰るよう言われた。せめて生徒に会ってから帰りたいとの願いもかなわないとわかり、生徒への伝言を託す。まだ朝鮮での仕事が残っている校長先生とも突然のお別れだった。
8月17日。生徒との日々、生徒がプレゼントしてくれた「ふるさと」を思い出しながらなすび先生は汽車に乗る。すると見送りにきてくれた生徒たちが走って汽車を追いかけてくる。これが彼らとの最後の時間になった。
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片付けをしていなかったことに気づいた孫のHくん。あわてておばあちゃんの日記を閉じる。
Hくんはおばあちゃんと同じ、教員の道を選んだ。
そして、おばあちゃんの想い、日本がおかしたあやまち、朝鮮人の受けた苦しみ、それを伝えていくことができるだろうかと思いながら、日々の授業に励んでいる。
〈おわり〉
韓国から2人の留学生がいるということを生かした、45期らしい劇だったと思います。ところところで韓国語も使われました。また、日本がおかした罪、朝鮮の方々の想像しきれない苦しみ、また朝鮮人日本人に関係なくこのことが多くの人に与えた傷、その中でも通い合った人同士の温かい心、そういうものに正面からむきあい、表現してくれたと思います。
最後に25人がステージに並び、役紹介など挨拶をしてくれました。
[矢野]
Posted by 愛農高校 at 19:00│Comments(0)
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