2009年08月25日
北海道実習
7月17日から8月5日まで、2年生の北海道実習がありました。北海道の雄大な自然の中、安平町の13戸の農家の方々に受け入れて頂き、20日間を過ごすことができました。その様子をお伝えします。今年の北海道は天候不順で7月に記録的な多雨となり、作物の生育が心配される中での受け入れとなりました。


北海道の農業は本州と比べて1戸あたりの経営面積が大きいといわれますが、今回生徒を受け入れてくれた農家もだいたい1戸あたり30~40町歩(1町歩=1ヘクタール=10,000㎡)の農地をもち、大きいところでは80町歩の畑作経営をしているところもありました。酪農は平均して搾乳牛40頭前後で、牧草とデントコーンは自給、というところが多かったです。例えば、ある農家では牛90頭、うち搾乳牛40頭。農地約50町歩、うち20町歩で牧草、その他デントコーン、豆類などを栽培していました。


こちらはアスパラガスの除草中。


畑の石を集めています。


アスパラガスの除草と、花の芽かきをしています。


搾乳中。右は中間旅行中。ユニガーデンとユンニの湯に行きました。


搾乳中。


哺乳中。 安平町は、馬でも有名です。


こちらも石拾い。 エサをあげています。


エサやり。 搾乳中。


薪割りをしていたところもありました。右は、刈り取りを待つ小麦畑。


!!…元気に作業しています。 甜菜畑の除草中。


エサやりです。


自転車で畑へ通っていました。 ここに2人います。


新しい寝ワラをしいています。


山の放牧地で。お父さんがベェベェと呼ぶと、丘の向こうから牛達が顔を出しました。

終了式の後で農家の皆さんと一緒に。
いろいろと話を聞かせてもらう中で、ここ40~50年の急激な農業・農村の変化に関する話が印象的でした。
以前は人がたくさんいて、青年団や4Hクラブの活動がさかんだったこと。その中で異業種交流や演劇、コーラスなどさまざまなイベントが行われ、地域で知らない人はいないほど人々の交流があったこと。
昭和40(1965)年頃稲作農家には手押し耕耘機が入り、馬と併用して使用。昭和50年頃には共同でトラクターを使用。この頃馬がいなくなったそうです。馬がいなくなるとともに鍛冶屋さんもいなくなった。この頃までは1戸あたり4~5町歩(特に稲作農家の場合)がほとんど。畑作農家は手押し耕耘機は使わずトラクターを入れ、馬と入れ替わっていったそうです。
昭和51~52年には区画整備が行われ、一枚一枚の田畑が大きくなり、機械効率があがり、機械化がすすんでいきます。そして離農が進み、離農した後の農地を買い取り少しずつ1戸あたりの農地が大きくなっていったそうです。
これはまさに昭和36(1961)年の農業基本法による農家戸数を減らし1戸あたりの経営規模を拡大していく過程と重なります。
「子どもの頃は馬がいて、自動車もめずらしいくらい。大人になったらオートバイに乗れたらいいなと思っていた。まさかこれほど車やトラクターが普及するとは思ってなかった。」という話が印象的でした。それほど変化が急激だったということなのでしょう。
その変化の中で農業を続けてきたことの大変さや農業を守っていくことの大切さ、そしてこれからどちらに向かっていったらいいのか、考えさせられました。いろいろと貴重な話を聞かせてもらいました。
生徒はそれぞれに家族のように受け入れてもらい、得難い体験をさせてもらったと思います。農家の方々には本当にお世話になりました。ありがとうございました。


北海道の農業は本州と比べて1戸あたりの経営面積が大きいといわれますが、今回生徒を受け入れてくれた農家もだいたい1戸あたり30~40町歩(1町歩=1ヘクタール=10,000㎡)の農地をもち、大きいところでは80町歩の畑作経営をしているところもありました。酪農は平均して搾乳牛40頭前後で、牧草とデントコーンは自給、というところが多かったです。例えば、ある農家では牛90頭、うち搾乳牛40頭。農地約50町歩、うち20町歩で牧草、その他デントコーン、豆類などを栽培していました。


こちらはアスパラガスの除草中。


畑の石を集めています。


アスパラガスの除草と、花の芽かきをしています。


搾乳中。右は中間旅行中。ユニガーデンとユンニの湯に行きました。


搾乳中。


哺乳中。 安平町は、馬でも有名です。


こちらも石拾い。 エサをあげています。


エサやり。 搾乳中。


薪割りをしていたところもありました。右は、刈り取りを待つ小麦畑。

!!…元気に作業しています。 甜菜畑の除草中。


エサやりです。


自転車で畑へ通っていました。 ここに2人います。


新しい寝ワラをしいています。


山の放牧地で。お父さんがベェベェと呼ぶと、丘の向こうから牛達が顔を出しました。

終了式の後で農家の皆さんと一緒に。
いろいろと話を聞かせてもらう中で、ここ40~50年の急激な農業・農村の変化に関する話が印象的でした。
以前は人がたくさんいて、青年団や4Hクラブの活動がさかんだったこと。その中で異業種交流や演劇、コーラスなどさまざまなイベントが行われ、地域で知らない人はいないほど人々の交流があったこと。
昭和40(1965)年頃稲作農家には手押し耕耘機が入り、馬と併用して使用。昭和50年頃には共同でトラクターを使用。この頃馬がいなくなったそうです。馬がいなくなるとともに鍛冶屋さんもいなくなった。この頃までは1戸あたり4~5町歩(特に稲作農家の場合)がほとんど。畑作農家は手押し耕耘機は使わずトラクターを入れ、馬と入れ替わっていったそうです。
昭和51~52年には区画整備が行われ、一枚一枚の田畑が大きくなり、機械効率があがり、機械化がすすんでいきます。そして離農が進み、離農した後の農地を買い取り少しずつ1戸あたりの農地が大きくなっていったそうです。
これはまさに昭和36(1961)年の農業基本法による農家戸数を減らし1戸あたりの経営規模を拡大していく過程と重なります。
「子どもの頃は馬がいて、自動車もめずらしいくらい。大人になったらオートバイに乗れたらいいなと思っていた。まさかこれほど車やトラクターが普及するとは思ってなかった。」という話が印象的でした。それほど変化が急激だったということなのでしょう。
その変化の中で農業を続けてきたことの大変さや農業を守っていくことの大切さ、そしてこれからどちらに向かっていったらいいのか、考えさせられました。いろいろと貴重な話を聞かせてもらいました。
生徒はそれぞれに家族のように受け入れてもらい、得難い体験をさせてもらったと思います。農家の方々には本当にお世話になりました。ありがとうございました。
〈タサカ〉
Posted by 愛農高校 at 17:30│Comments(0)
│45期
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